銘菓「木守」誕生エピソード

晩秋の柿の木に,翌年の豊作を祈り、あえて1つだけ実を残す「木守」という風習がある。

その昔、茶人”千利休”が高弟達を集め、楽長次郎に焼かせた茶碗を譲り分けた際
手元に1つ赤楽茶碗が残った。利休はその色が柿の色に似ていること、そして
1つだけ残ったということから、この茶碗に「木守」と名付けてことのほか愛した。
利休主宰の茶会にもよく使われ、豊臣秀吉や徳川家康にも茶をもてなしたと伝わっている。
利休没後、この木守茶碗は孫元伯から茶道三千家のひとつ武者小路千家に伝わり、
6代目真伯宗旦が茶道の指南役をしていた高松藩主松平家に献上され現在に至る。
千家ゆかりの名器として武者小路千家官休庵家元の代替わりの茶事には松平家より貸し出され、その光彩を放っている。
しかし大正12年関東大震災の時、運悪く東京の松平屋敷に渡っており無残にも
粉砕してしまった。その後、かろうじて焼け残っていた1片を用い、楽弘入・惺入親子2代により木守茶碗は復元された。

三友堂の創始者はかつて高松藩主松平家に仕える武士であった。
廃藩置県を機に、友人3人で和菓子製造業を始め屋号を「三友堂」とした。
2代目松次は和菓子製造のほか、茶道や俳句・絵画など嗜む芸術肌の趣味多き職人で、菓子の掛け紙を描き、現在もそのデザインを使用している。
茶道を嗜む松次にとって「木守茶碗」の復元は大変喜ばしく、
この復元を記念して干し柿を使った菓子を創製し松平家・武者小路千家より許しを得、
悲運の名器の面影を偲ぶ「銘菓木守」が誕生したのである。
昭和初期の誕生以来代々伝統の味を守り続けている。